祝福の司牧的意味に関する 教理省の 2023年12月18日付の 布告 Fiducia supplicans[祝福を懇願する信頼]
導入
訳注 [i] 従来の Congregazione per la Dottrina della Fede の名称は,2022年06月05日から発効した 使徒的憲章 Praedicate Evangelium[あなたたちは 福音を 宣べ伝えなさい]において,Dicastero per la Dottrina della Fede に 変更された.日本語に直訳すれば,Congregazione per la Dottrina della Fede は「信仰の教義を司る会合」であり,Dicastero per la Dottrina della Fede は「信仰の教義を司る省庁」であるが,慣例的には 両者は いづれも「教理省」と翻訳されている.このテクストにおいて「旧 教理省」と呼ばれているのは Congregazione per la Dottrina della Fede のことである.
I. 結婚の秘跡における祝福
II. さまざまな祝福の意味
祝福の儀式の 典礼的な意味
聖書における祝福 (Le benedizioni nella Sacra Scrittura)
訳注 [ii] ヘブライ語の動詞 בָּרַךְ も ギリシャ語の動詞 εὐλογέω も ラテン語の動詞 benedico も,「下降的」である場合 — すなわち,主語が神であり,目的語が人間である場合 — は「祝福する」と訳されるが,逆に「上昇的」である場合 — すなわち,主語が人間であり,目的語が神である場合 — は,「祝福する」とは訳されず,しかして「讃える,讃美する,称讃する」と訳される;つまり,どういうわけか,日本語においては「人間が神を祝福する」とは言わない.
祝福の 神学的-司牧的 理解
祝福する神が いる.聖書の始めの数ページには,祝福が連続的に繰り返されてある.神は 祝福する;だが,人間たちも 祝福する[讃美する]; そして,我々は すぐさま このことを発見する:祝福は 特別な力を有している;その力は,それを受ける者に〈その者の全人生の間〉寄り添い,そして,人間の心を〈神によって変えられることが可能となるように〉準備させる.[…] そのように,神にとって,我々は〈我々が犯し得る罪すべてよりも〉より重要である;なぜなら このゆえに:彼[神]は 父であり,母であり,純粋な愛である;彼は 我々を いつも祝福してきた;そして,我々を祝福することを 決して やめないだろう.刑務所のなかや 依存症から回復しようとしている人々の共同体のなかで それらの〈祝福に関する〉聖書箇所を読むことは,強烈な経験である — それらの人々に このことを感じさせること:彼らの重大な過ちにもかかわらず,彼らは祝福されたままである ということ;天の父は,彼らの善を欲し続けており,彼らが ついには 善へ開かれることを 望み続けている ということ.たとえ 彼らの最も近しい親族が〈彼らのことを 既に 社会復帰不可能と 判断して〉彼らを見棄てても,神にとっては 彼らは 常に 息子である [19].
訳注 [iii] スペイン語テクストにおける vida[いのち]に相当するはずの語が,イタリア語テクストにおいては verità[真理]となっている.このテクストを作成した Víctor Manuel Fernández 枢機卿は,Papa Francesco と同じく,アルゼンチンの出身であり,したがって,彼の母国語はスペイン語であるので,このテクストの原文はスペイン語で書かれたにちがいない.それゆえ,イタリア語テクストの verità は 翻訳者の勘違いの産物であろう.同時に発表された フランス語,英語,および ドイツ語のテクストにおいては いづれも「真理」に相当する語が用いられている;つまり,それらはイタリア語訳にもとづく二重翻訳である.同様の誤訳 — そこにおいては,Papa Francesco が スペイン語で書いた tweet が イタリア語訳者によって 誤訳され,そして,そのせいで,フランス語と英語の 教皇 Twitter の テクストにおいても 同じ誤訳が 再現されていた — に,わたしは 以前にも 気づいたことがある.
III. イレギュラーな状況にあるカップル および 同性どうしのカップルの 祝福
訳注 [iv] スペイン語テクストにおいて investido(動詞 investir の 過去分詞);スペイン語においては 動詞 investir は「(職務,地位,勲章などを)授ける,付与する,与える」であって,資本主義的な「投資する」という意味を有していないが,ここでは「(彼らのなかのポジティヴなものが)聖なる息吹の現在によって さらによりポジティヴなものとされる」と言うために 用いられている.ここでは「投資する」を「何らかの資質や性質を付与する」という意味で用いる.訳注 [v] スペイン語テクストにおける santificado(動詞 santificar[聖化する]の過去分詞)が,イタリア語テクストにおいては sanato(動詞 sanare[癒す]の過去分詞)と訳されている;この誤訳は,イタリア語訳者が スペイン語の santificado を イタリア語の sanificato(健康的にされた)と勘違いしたことによる と思われる;その誤訳のせいで,英仏独訳のテクストにおいても「癒す」を意味する動詞の過去分詞が用いられている.訳注 [vi] スペイン語のテクストで impulsos[複数形].その語は,力学においては「力積」であり,より一般的には「衝撃力,推力」であるが,心理学的には「衝動」であり,悪い意味における「衝動的」(impulsivo) の語源でもある.聖なる息吹に関して「衝動的」と言うことは,いかにも 我々を驚かせはするが,しかし,福音書のなかでしばしば用いられているあの有名な動詞 σπλαγχνίζομαι[はらわたに強い憐れみを覚える]— その主語は イェス自身 または 彼が語る譬えにおいて父なる神を表す人物である — を連想させもする;つまり,こう言うことができるだろう:神は,我々の惨めさを見るとき,はらわたに覚える憐れみによって「衝動的」に 我々を助けてくださる.訳注 [vii]「聖化する恵み (gratia sanctificans) は,常住的な賜 (donum habituale) である;それは,ひとつの安定的な超自然的状態であり,魂そのものを 完璧にする — それ[魂]を〈神とともに生きることができ,そして,神の愛によって行うことができるようなものに〉するために.[ここで 以下の二種類の恵みが]区別される:[ひとつは]常住の恩恵 (gratia habitualis) — 神の呼びかけにしたがって 生き かつ 行うための 恒常的な状態 —;[もうひとつは]助力の恩恵 (gratiae actuales) — それらは〈あるいは 回心の起源における,あるいは 聖化の作用の過程における〉神の介入のことを 指す」(カトリック教会のカテキズム #2000).
IV. 教会は 神の無限の愛の秘跡である
[1] Francesco, Catechesi sulla preghiera: la benedizione (2 dicembre 2020), L’Osservatore Romano, 2 dicembre 2020, p. 8.
[2] Cfr. Congregatio pro Doctrina Fidei, «Responsum» ad «dubium» de benedictione unionem personarum eiusdem sexus et Nota esplicativa, AAS 113 (2021), 431-434.
[3] Francesco, Esort. Ap. Evangelii gaudium (24 novembre 2013), n. 42, AAS 105 (2013), 1037-1038.
[4] Cfr. Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales (11 luglio 2023).
[5] Ibidem, ad dubium 2, c.
[6] Ibidem, ad dubium 2, a.
[7] Cfr. Rituale Romanum ex decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Ioannis Pauli PP. II promulgatum, De Benedictionibus, Editio typica, Praenotanda, Typis Polyglottis Vaticanis, Civitate Vaticana 1985, n. 12.
[8] Ibidem, n. 11: «Quo autem clarius hoc pateat, antiqua ex traditione, formulae benedictionum eo spectant ut imprimis Deum pro eius donis glorificent eiusque impetrent beneficia atque maligni potestatem in mundo compescant».
[9] Ibidem, n. 15: «Quare illi qui benedictionem Dei per Ecclesiam expostulant, dispositiones suas ea fide confirment, cui omnia sunt possibilia; spe innitantur, quae non confundit; caritate praesertim vivificentur, quae mandata Dei servanda urget».
[10] Ibidem, n. 13: «Semper ergo et ubique occasio praebetur Deum per Christum in Spiritu Sancto laudandi, invocandi eique gratias reddendi, dummodo agatur de rebus, locis, vel adiunctis quae normae vel spiritui Evangelii non contradicant».
[11] Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales, ad dubium 2, d.
[12] Ibidem, ad dubium 2, e.
[13] Francesco, Esort. Ap. C’est la confiance (15 ottobre 2023), nn. 2, 20, 29.
[14] Congregazione per il Culto Divino e la Disciplina dei Sacramenti, Direttorio su pietà popolare e liturgia. Principi e orientamenti, Libreria Editrice Vaticana, Città del Vaticano 2002, n. 12.
[15] Ibidem, n. 13.
[16] Francesco, Esort. Ap. Evangelii gaudium (24 novembre 2013), n. 94, AAS 105 (2013), 1060.
[17] Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales, ad dubium 2, e.
[18] Ibidem, ad dubium 2, f.
[19] Francesco, Catechesi sulla preghiera: la benedizione (2 dicembre 2020), L’Osservatore Romano, 2 dicembre 2020, p. 8.
[20] De Benedictionibus, n. 258: «Haec benedictio ad hoc tendit ut ipsi senes a fratribus testimonium accipiant reverentiae grataeque mentis, dum simul cum ipsis Domino gratias reddimus pro beneficiis ab eo acceptis et pro bonis operibus eo adiuvante peractis».
[21] Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales, ad dubium 2, g.
[22] Cfr. Francesco, Esort. Ap. post-sinodale Amoris laetitia (19 marzo 2016), n. 250, AAS 108 (2016), 412-413.
[23] Cfr. Congregazione per il Culto Divino e la Disciplina dei Sacramenti, Direttorio su pietà popolare e liturgia, n. 13: «La differenza oggettiva tra i pii esercizi e le pratiche di devozione rispetto alla Liturgia deve trovare visibilità nell’espressione cultuale […] gli atti di pietà e di devozione trovano il loro spazio al di fuori della celebrazione dell’Eucaristia e degli altri sacramenti».
[24] Francesco, Respuestas a los Dubia propuestos por dos Cardenales, ad dubium 2, g.
[25] Francesco, Esort. Ap. post-sinodale Amoris laetitia (19 marzo 2016), n. 304, AAS 108 (2016), 436.
[26] Cfr. ibidem.
[27] Officium Divinum ex decreto Sacrosancti Oecumenici Concilii Vaticani II instauratum auctoritate Pauli PP. VI promulgatum, Liturgia Horarum iuxta Ritum Romanum, Institutio Generalis de Liturgia Horarum, Editio typica altera, Libreria Editrice Vaticana, Città del Vaticano 1985, n. 17: «Itaque non tantum caritate, exemplo et paenitentiae operibus, sed etiam oratione ecclesialis communitas verum erga animas ad Christum adducendas maternum munus exercet».
[28] Francesco, Esort. Ap. Evangelii Gaudium (24 novembre 2013), n. 44, AAS 105 (2013), 1038-1039.
[29] Ibidem, n. 36, AAS 105 (2013), 1035.
[30] Benedetto XVI, Omelia della Santa Messa nella Solennità di Maria SS.ma Madre di Dio. XLV Giornata mondiale della Pace, Basilica Vaticana (1° gennaio 2012), Insegnamenti VIII, 1 (2012), 3.
この〈福音宣教という〉文脈において,わたしは,また,最近の 布告 Fiducia supplicans にも 言及しよう.「司牧的な かつ 自発的な 祝福」の 目的は,このことである:〈信仰の道を歩み続ける — あるいは ときとして 歩み始める — ために 助けを求める 人々 — 彼らは さまざまな状況のなかに いる — すべてに対して〉主と教会の近しさを 具体的に 示すこと.わたしは,手短に,ふたつのことを 強調したい : 1) それらの〈あらゆる《典礼的な特徴を有する》文脈および形式の埒外において成される〉祝福[複数]は,それらを受ける条件として,道徳的な完璧さを要請しない ; 2) それらを求めるために カップルが 自発的に 近づいてくるときに,我々[牧者]が祝福するは[そのカップルの]l’unione[そこにおいて ふたりが ひとつに成るところの 繋がり,結びつき : cf. Gn 2,24「それゆえ,男は〈彼の父 および 彼の母から〉離れる;そして,彼の女[妻]に 付く;そして,彼れらは ひとつの肉に成る」]ではなく,しかして,単純に,ふたりでいっしょに祝福を求めにきた[ふたりの]個人 (le persone) である.[我々が祝福するのは]l’unione ではなく,しかして le persone である — 勿論,これらのことを 考慮に入れつつ:そこにおいて そのとき 我々[祝福を求めるカップル および 祝福する牧者]が 生きているところの 状況の 文脈,敏感さ,場所;および[そこにおいて]最も適切である〈祝福の〉しかた.