2020年1月2日木曜日

新年の御挨拶 : LGBTQ みんなのミサ世話役 ルカ小笠原晋也

Theotokos of Vladimir (around 1131), in the Church of St. Nicholas in Tolmachi, Moscow

新年 明けまして おめでとうございます!主の愛が 皆さん おひとり おひとり と ともに ありますように!

元旦のミサの第一朗読,民数記 6,22-27 から,祝福の言葉を引用しましょう:
主が あなたを祝福し そして あなたを守護してくださいますように! 
主が 御顔の輝きを あなたへ向け そして あなたに恵みを与えてくださいますように! 
主が 御顔を あなたへ向け そして あなたに平和を与えてくださいますように!

しかし,元旦も めでたい気分でいることは 全然できません.降誕祭の御挨拶 では,カトリック聖職者による性的虐待の問題に触れました.その後 目にとまった Associated Press の記事 は,教皇庁の教理省のなかでその問題を担当する部門の責任者 Mgr John Kennedy のインタヴューを報じています.彼によると,2019 年一年間で 新たに千件が 世界中から報告されたそうです(新たに性的虐待事件が 千件 起きたのではなく,今まで伏せられてきた過去の事件 千件 の報告を 教理省が受けた ということです).この問題は,まだまだ とどまることろを知りません.今後,膨大な数の損害賠償訴訟も起こされるはずです.

たとえば,大晦日付の Associated Press は,Donald McGuire(1930-2017 ; もとイェズス会司祭 ; saint Teresa of Calcutta との近しい関係を誇示していたことで知られていた ; 2008 年に聖職解任 ; 2006 年に初めて性的虐待のために有罪判決を受け,その後,さらに ほかの性的虐待事件でも有罪判決を受けて,2009 年から 25 年の刑期で 収監されていたが,2017 年に獄中で死去)から 少年時代に 性的虐待を受け続けた ある被害者が,イェズス会などに対する損害賠償請求のために提訴したことを,報じています.Donald McGuire は,その被害者が多数であったこと,彼の問題行動は 1961 年の叙階直後から指摘されていたにもかかわらず,イェズス会は長年にわたり適切な対処を怠ってきたこと,などの理由により,悪名高いケースのひとつです.

Mgr John Kennedy のインタヴュー記事 に戻ると,Benedictus XVI は,加害者を聖職から解任することによって,「もう今後は Vatican は関係ない」という姿勢を取っていましたが,それに対して,Papa Francesco は,加害者を,Vatican の監視下に置き続ける(加害者を「野放し」にしないために — というのも,時効や証拠不十分のために刑事責任が問われ得ない場合,聖職から解任された加害者は,一般社会のなかで性的虐待を繰り返して行く可能性があるからです)ために,安易に司祭職から解任しない方針を取っているそうです.ですから,もしかしたら,性的虐待の責任を問われて司祭職から解任された者の数は,Benedictus XVI の時代の方が Papa Francesco の時代よりも多いということになるかもしれません(まだ数字は確定していません)が,それは,Papa Francesco の対応が甘いということを意味するものではありません.

また,2019 年 12 月 27 日付の Washington Post 紙の記事 は,性的虐待を行ったカトリック聖職者のうちで最も位の高い者のひとり,Theodore McCarrick が,罪の隠蔽のために 総額 60 万ドル以上の賄賂をばらまいていた可能性を,示唆しています.McCarrick からの「寄付」を受け取っていた者たちのなかには,過去の教皇ふたり  Johannes-Paulus II と Benedictus XVI  も含まれています.

カトリック聖職者による性的虐待を防止するためには,カトリック教義から homosexuality 断罪を一掃する必要があること,および,司祭養成過程において「欲望の昇華」の課題に主題的に取り組む必要があること は,今までにも 繰り返し 指摘してきました(特に『LGBTQ+ と カトリック教義』を参照).

このブログ記事では,性的虐待の問題は ここまでにして,次に,降誕祭メッセージ で取り上げることのできなかった〈カトリック教会における〉女性差別の問題 — 特に,女性の司祭職からの排除の問題 — に 簡単に 触れたいと思います(より詳しい検討は 別稿で).

この問題について しばしば引用されるのは,Johannes-Paulus II の 1994 年 5 月 22 日付の 使徒書簡 Ordinatio sacerdotalis の結論です:
Ut igitur omne dubium auferatur circa rem magni momenti, quae ad ipsam Ecclesiae divinam constitutionem pertinet, virtute ministerii Nostri confirmandi fratres (Luc. 22, 32), declaramus Ecclesiam facultatem nullatenus habere ordinationem sacerdotalem mulieribus conferendi, hancque sententiam ab omnibus Ecclesiae fidelibus esse definitive tenendam. 
Pertanto, al fine di togliere ogni dubbio su di una questione di grande importanza, che attiene alla stessa divina costituzione della Chiesa, in virtù del mio ministero di confermare i fratelli (Lc 22, 32), dichiaro che la Chiesa non ha in alcun modo la facoltà di conferire alle donne l'ordinazione sacerdotale e che questa sentenza deve essere tenuta in modo definitivo da tutti i fedeli della Chiesa. 
C'est pourquoi, afin qu'il ne subsiste aucun doute sur une question de grande importance qui concerne la constitution divine elle-même de l'Église, je déclare, en vertu de ma mission de confirmer mes frères (cf. Lc 22,32), que l'Église n'a en aucune manière le pouvoir de conférer l'ordination sacerdotale à des femmes et que cette position doit être définitivement tenue par tous les fidèles de l'Église. 
それゆえ,神によって定められた〈教会の〉あり方そのものにかかわる ひとつの たいへん重要な 問い について あらゆる疑いを除去するために,わたしは,兄弟たちを[その信仰において]確固たるものにする わたしの使命(ルカ 22,32)の名において,こう宣言する:教会は,如何とも,女性に司祭叙階を授ける権限 [ facultas, facoltà, pouvoir ] を有してはいない.かつ,わたしは こう宣言する:この見解を,教会の全信者は 決然と 取るべきである.

Papa Francesco も,2013 年 7 月 28 日 の Rio de Janeiro からの帰途の機上記者会見のなかで,この Johannes-Paulus II の言葉に準拠しつつ,「女性の司祭叙階への扉は閉ざされている」と述べており,その後も,その見解を維持しています.

1994 年の使徒書簡 Ordinatio sacerdotalis において,Johannes-Paulus II 自身は,Paulus VI が 1975 年に Church of England の Canterbury 大司教に 宛てた書簡 と 教理省の 1976 年の声明 Inter insigniores とに 準拠していますが,そちらの内容に立ち入るのは 別の機会にしたいと思います.

ともあれ,Johannes-Paulus II の言葉 :「カトリック教会は,女性に司祭叙階を授ける権限を有してはいない」を見ると,我々は すぐに気づきます:たとえ教会にはできないとしても,神にはできる — そも,「それは 人間には 不可能だが,神には あらゆることが 可能である」(Mt 19,26). そして,たとえ教皇が女性司祭叙階不可の見解を決定的なものとして我々に押しつけるとしても,「そも,誰が 主の考えを 知ったか?」(Rm 11,34). であればこそ,Reinhard Marx 枢機卿 も こう言っています :「カトリック教会は 教皇が断言したことに配慮しないわけには行きませんが,しかし,女性司祭叙階に関する議論に 決着がついたわけではありません」.

女性司祭叙階の可否の問題を カトリック教義との関連において ふりかえってみると,それは Magisterium Ecclesiae[教会の教導権]の問題と密接に関連していることが わかります.

ここでは,詳細に立ち入ることは控えて,要点だけ述べましょう.Lex Naturalis[自然法]とともに,カトリック教義に含まれる「形而上学的偶像崇拝」(l'idolâtrie métaphysique) を成す Magisterium Ecclesiae は,要するに,神を,司教たちの véridicité[真言性:真理を言っている ということ]を a priori に[先験的に]保証するものとして利用することに存します.そして,そのような保証は 男にのみ妥当します — なぜなら,女には「それ」が 欠けているから.

女には 何が欠けているか ? 突然,精神分析の用語を持ち出してくることを お許しください:女には phallus が欠けている(phallus は,身体器官としての penis のことではありません).そして,その phallus と,真言性の保証としての神 — Pascal が「哲学者たちと神学者たちの神」(le Dieu des philosophes et des savants) と呼んだ「形而上学的な偶像神」(l'idole métaphysique) — とは,同じひとつのものですです.

我々は「女には phallus が欠けている」を自明のことと思い込んでいます.それに対して,フランスの精神分析家 Jacques Lacan (1901-1981) は こう言っています :「女には 何も欠けていない,女は 何も欠いていない」(la femme ne manque de rien). つまり,女における「phallus の欠如の穴」と見なされている穴は,「本来あるべき phallus が欠落しているがゆえに開いた穴」ではなく,しかして,「穴が開いている」ということが本来的である.むしろ,男において その穴が phallus によって塞がれている という事態の方が,非本来的である.穴塞ぎの phallus は,単なる「まがいもの」にすぎない — Pascal が「哲学者たちと神学者たちの神」と呼んだ「形而上学的な偶像神」と同様に.

ひとことで言えば,「女性は 司祭に叙階され得ない」という カトリック教会の伝統的な見解の理由は,このことです:女性は 神の啓示の真言的な証人ではあり得ない — なぜなら,女性には,真言性の a priori な保証としての phallus が欠けているから.

しかし,その見解は,実は,カトリック教会の伝統そのものによって,否定されています : Maria Magdalena を Apostolorum Apostola[使徒たちの使徒]と呼ぶ伝統によって.彼女の証言 — Jesus が 死から 永遠の命へ 復活した ことの証言 — こそが,キリスト教の最も根本的な基礎です.使徒たちは,彼女の証言を 真なるものとして 信じました.そこに,カトリック教会の歴史は始まります.

今年,わたしたちは,この矛盾を指摘することから出発して,カトリック教会における女性差別の問題についても 問い直して行きたい と思います — 引き続き,LGBTQ+ カトリック信者はカトリック教会のなかで如何に生き得るか について問うとともに.

最後に,いかなる差別の正当化をも許さないパウロ書簡の有名な一節を,引用しておきましょう (Ga 3,26-28) :
そも,あなたたちは皆,信仰によって,Christus Jesus において 神の子である.そも,Christus のなかへ浸されたあなたたちは皆,Christus を身にまとったのだ.もはや,ユダヤ人もギリシャ人も無く,奴隷も自由人も無く,男も女も無い.そも,あなたたちは皆,Christus Jesus において一者である.

2020 年が 皆さんにとって 幸多き年でありますように!

ルカ小笠原晋也