The Anastasis fresco in the parecclesion of the Chora Church in Istanbul : Jesus Christ pulling Adam and Eve from their coffins in hell.
LGBTQ みんなのミサ 世話人
皆さま,ご復活 おめでとうございます.
ミサに自身を捧げる行いを共有できず,なにか 心に穴が空いているような頼りなさを 感じています.
ゲッセマネの園から ご復活までの間が,わたしたちのすべて という実感は 毎年 深まります.
日常でも,「その人を想う」とは「その人の言葉を想う」ことと同じ意味だ と 感じています.
わたしたちが 誰でも 同じ意味を感じるのは,主イエスの 十字架上の 7 つの言葉です.いろいろな想像や史実を重ねながら感じるしかなくて,答えのない愛の姿が どこまでも 深まっていきます.
有名な言葉の例では,下記の第 5 の言葉 :「渇く」— それを マザー テレサは 列車のなかで聞きました.彼女の修道会の十字架には すべて "I thirst"[わたしは渇く]が 一緒に あります.
わたしたちも,十字架を見上げたとき,心に 言葉が 浮かびます.マザー テレサの場合は いつも "I thirst". 美しく 甘美で 激しく すべての創造の源となる言葉を,わたしたちは それぞれに 主イエスから いただきます.わたしの場合は まず「開け!」.そして,もうひとつは,ペトロが 三度 イエスを知らない と 言った後に,イエスがペトロを見つめた「真っ直ぐな まなざし」という 無言の言葉.
すべての人が 神の最高傑作です.神は,さらに,わたしたち各人に,御言葉で ミッションを与えます.
十字架上のキリストの 最後の 七つの 言葉:
1.「父よ,彼らを赦して下さい.なぜなら,彼らは 自分たちが何をしているのか わかっていないからです」(Lc 23,34).
2.「アーメン,わたしは あなたに 言う:今日 あなたは わたしとともに 天国にいるだろう」(Lc 23,43).
3. イェスは,自身の母を 見,そして,その近くに 彼の愛する弟子を 見て,母に言った :「女よ,それが あなたの息子だ」.次いで,イェスは 弟子に言った :「それが おまえの母だ」(Jn 19,26-27).
3. イェスは,自身の母を 見,そして,その近くに 彼の愛する弟子を 見て,母に言った :「女よ,それが あなたの息子だ」.次いで,イェスは 弟子に言った :「それが おまえの母だ」(Jn 19,26-27).
4. Eli, Eli, lema sabbaqthani ?[わが神,わが神,なぜ わたしを見棄てたのですか?](Mt 27,46).
5.「わたしは 渇く」[ διψῶ ] (Jn 19,28).
6.「成就した」[ τετέλεσται ] (Jn 19,30).
7.「父よ,わたしの息を あなたの手に ゆだねます」(Lc 23,46).
主イエスの御言葉の味わい方にも わたしなりのやり方が あります.それは,毎日 主イエスの愛を実感する という習慣です.わたしにくださった御言葉を思い起こすだけで,愛を実感します.わたしは 愚かで 単純ですけれど,みなさんにも 固有の感じ方があると想います.
1 日は 24時間,1440 分です.そのうち たった 1 %, 15 分だけを 使います.
神に愛されているという実感を感じると,ふたつの傷が 愛で 満たされます:
1. わたしには 神に愛される資格が ない(根源的自己否定);
2. 神は 存在しない.
それらの傷を愛で埋めていただくと,他者への奉仕に向かい,神の道具になることができます.
表面的で 一般的な「行いの罪」の傷も 愛が 潤し 癒してくれます.
愛されている実感があるから,罪も すべて 神に見せることができます.どうせ,もう すべてを 御存じですし.ですが,自身の謙虚さから 罪や開心の思いを神に打ち明けると,わたしの実感では,神は 喜んでくださいます.
わたしたちの仲間は,身体の表面や内面への 深く 豊かな 気づきを可能にする賜物を いただいています.だから,相手も 思いも 深く受容するし,同じように 神の思いも 深く 受容します.頭でっかちな信仰ではなくて,心と身体で神を感じている人の言葉は,ちょっと違うんです.わたしは,LGBTQ みんなのミサを始めて以来,参加者たちと話していて,頭でっかちな人とは違う と 気づき,福音を強く感じ,強く 魅力も 感じました.
洗礼を授かった者も,授かっていない者も,わたしたちは,それぞれに,主の福音を伝えるカリスマを 主から いただいています.
わたしは「信仰」という語が性に合わず,「神交」と言っています.ただし,それは「神との交わり」ではなく,「神が 先に わたしと交わってくださる」という意味です.
1 日の 1 % だけでも,黙想に当てましょう.すべては 神が はからってくださいます.